「内容のある文章」にテクニックはない 大事なのは「主張」です
私は某ASPに所属しているライターなのですが、よくアフィリエイターさんからこんな質問が寄せられます。
「内容のある記事を書くテクニックを教えてください」
その度に私たちは頭を抱えるのです。何故なら、内容のある記事を書くテクニックなんて存在しないからです。むしろ私が教えて欲しいくらい。
はて、どうしてどうしょうか?
パラグラフライティング、VAKモデル、ペルソナ、レトリック、オノマトペ、理解度の統一などライティングには様々なテクニックが存在します。それは認めましょう。私としてもたくさんの書籍を読んだり、先輩にテクニックを教えてもらいました。
だけど、これだけはハッキリとしています。
「内容のある記事」にテクニックはありません。
正確にはテクニックは「必要ない」のです。
だと言うのに、Googleで「内容のある記事」と検索すると小手先だけのテクニックばかりがヒットします。
もうね。ふざけるなと言いたい。
この記事を読んだライターたちが不必要なテクニックだけを覚え、無駄に読みやすくて内容のない悪質な記事を量産しているのです。現在、インターネットには内容のない記事ばかりが溢れています。
具体的には言うと「いかがでしたか!?」系のゴミ記事のことね。散々期待を煽っておいて、情報も無く、無味乾燥のふやけまくった米みたいなアレのこと。これは記事って言わない。
検索上位の記事を書いた奴らを一列に並べて、太ももの蹴られるとめっちゃ痛いあそこにローキックをかましてやりたい気分ですよ。
それではどうして内容のある記事にテクニックは必要ないのか、その幻想を一つ一つ壊していきましょう。
まず1つめ。
「内容のある記事」を決めるのは書き手ではなく読み手である。
はい。これが大々前提です。
この考えを持っていないと、表面的なテクニックに頼りがちになります。
良いですか?
そもそも内容の有無を決めるの誰だと思います?
そう、読み手ですね。
読む人が「これは内容があるぞ!」はたまた「なんだこの内容もないゴミ記事は!」などと思うわけですね。
ここで注目して欲しいのは、内容の有無は読み手の知識量や考え方によって変動するということです。
例えば、24歳の大の大人が小学生向けの算数の教科書を読んで「内容がある!」と思うでしょうか? 村上春樹が作文入門を読んで「内容がある本だ」と言うでしょうか?
言いません。決して彼らはそんなこと言いません。絶対に「知ってた」と淡泊に言うに決まってます。
だけれど、もし算数の教科書を読んだのが小学生だったら? 作文入門を読んだのが山田悠介だったらどうでしょう?
うって変わって「内容のあるもの」に変貌します。
つまり、内容のある記事というのは「新知識を得られる記事」や「考えさせる記事」ということなのです。そしてこれらは、読み手によって変わります。
この記事もそうです。内容のある記事の本質を知っている人からすれば、この記事は無価値で内容のない記事であり。本質を知らずテクニックだけを追い求めた人からすれば内容のある記事になるのです。
前提条件:内容のある記事はユーザーが決める。
さて、この前提条件を頭に入れてください。この条件が全ての元になっています。
というか、これが内容のある記事の全てです。後は読みやすくするための工夫に過ぎません。
レストランで例えると、運ばれてくる料理が「内容」です。これを美味しいか不味いかを判断するのは注文したお客さん。そして、メニューを見やすくしたり、お店の雰囲気を良くしたり、お客さんが料理を注文したいと思わせることを「ライティングテクニック」と言います。
本質は「料理である内容」であって、それ以外は補助です。ライティングテクニックはあくまでも「内容を噛み砕く」までを分かりやすく導くための導線なんです。
ここを勘違いして、「ライティングテクニック」だけを学んでしまうと、意味も無いクソみたいな記事ができあがります。それはやめましょう。本質を理解してください。
では、次のお話。
その文章は誰が読んでも理解できるか?
難しい記事=内容のある記事
このような勘違いは残念なことによくされるものです。
確かに、医学書や論文などは内容がある文章の筆頭として上がるでしょう。しかし、私は読んだことはありません。読む気にもなれません。
何故なら、難しいから。
先ほど、内容のあるなしは読み手が判断すると言いました。そう考えると、読まれない難しい記事は内容があると言えますか?
言えないんですよコレが。読まれない記事は内容どころか存在してないと同じなんです。もちろん、私の頭の悪さだったり知識量のなさが「難しい」と判断しているのは事実です。しかし、Webサイトに公開された専門用語たっぷりな記事にユーザーが苦手意識を持っているのも事実。
専門用語をたっぷり使った記事は例えるなら外国語で書かれているような物です。というか実際にそうですよね。「エビデンス」とか「レトリック」とか「メタファー」とか「ライティング」とか「オノマトペ」とかです。あれ、さっきから私も使ってね??
なので、記事にする前に必ず日本語翻訳してください。そのサイトを見ているユーザー層にもよりますが、中学生が読んでも分かるくらい簡単な文章にしてください。
あとは文字の装飾や、目次の設定、画像などを用意するとより分かりやすくなります。あれ? どれも私は使ってないよね??
まあ、私のことは棚に上げておきましょう。ほとぼりが冷めた頃に勝手に棚から降ります。
まとめると、誰もが読める文章にしようってこと。
内容のある記事は「主張」がある。
いやさもうさ、テクニックとかいいし。
つうか、内容のある記事がユーザー判断だったら俺らライターはどうすりゃいいわけ?
この意見も一理あります。
内容を判断するのがユーザーであったら、私たちは一体どうやって内容のある記事を書けば良いのでしょう。
答えは簡単。
「主張のある」記事にするのです。
ライターの考えを伝える記事は正解不正解に関わらず、読み手を考えさせます。
何故なら読者は書き手の「主張(考察)」を読みに来ているからです。
例えば、ミントの香りがする「飴」を紹介するとします。
それをただ「舐めるとミントの良い香りがします」と書くと内容のない文章になります。
じゃあどうするのか。この事実を元に書き手の主張を入れるのです。
「舐めるとミントの良い香りがするので、食事の後に口の中をリフレッシュすることができます」
読者は「口の中をリフレッシュすることができる」ここを読みに来ているのです。
このように情報だけではなく、「主張」を読者に届けるようにしましょう。これは軽い主張ですが、これだけでもグッと意味のある記事になります。
この記事を例にすると、私が一番主張したいものは「内容のある記事にテクニックは必要ない」です。ちょっと炎上しそうだけど、これが一番強く主張したい事実なんです。
この主張はどうですか? 少しは興味が沸きませんか?
しかしながら世の中にはこれすら出来ていない記事が多いです。
「〇〇の年収は? 彼女は? 過去に事件を起こしたって本当?」
こんな記事。
これは色々なSNSや記事を引用して作られた継ぎ接ぎだらけの記事です。ここにライターの主張はありません。ただ情報を羅列しているだけです。しかも、結局「分かりませんでした!」と開き直ることが多い。
まさに「内容のない記事」です。
内容のある記事には「主張」がある。これを覚えてください。
主張を書くコツもありますが、いつか時間があるときにまとめてみます。
総括
・内容の有無は読者が決める。
・読者が読みやすい文章を書こう。
・読者が興味を頂く(つまり内容のある)記事には主張がある。
こういうことです。
以上のことを踏まえて、全てを無視した内容のないゴミ記事を発見しました。
これです。
全く内容ありませんね。
無駄に長い文章で書いていますが、要約すると
今日食べたケバブ丼が辛かったです。
店員が意地悪したんだと思います。
でも店員さんの見せた笑顔で許しました。
以上。
はいゴミ。
なんだこの内容もクソもないゴミ記事は?
現役ライターの立場としてはこれは許容できません。ライターで燃やしてそのまま灰にしたい。
意見も主張もありません。
これはただの日記です。昔で言うと「チラシの裏にでも書いておけよ」ってやつ。
いや、それ以下です。
昨日見た夢の内容を語り出す友人くらい内容がありません。
不毛です。
こんな記事は見なかったことにして次のサイトに行きましょう。
あら?
ちょっと待って。
うんうんうん。
あーはい。これね。
これさ。
私の記事だわ。
ここで主張したこと一切守っていない私っていったい・・・・・・
エモいに浸食されると会話は意味を無くします
本日、リビングで本を読んでいたら妹とその友人の会話が聞こえた。
「マジでセブチの曲エモくない!?」
「わかりみだわー」
はい。出ました「エモい」。もうね、期待したとおりですよ。本当に。これが俗に言う若者言葉です。そして「わかりみ」。これも頂きましたね。わかりみが凄い。
補足すると私の妹は女子高生なんですね。そして、その友人も当然女子高生。セブチというのは私の妹が滅茶苦茶にハマっているK-POPアイドルグループのこと。ちなみに妹の偏差値は6くらい。野生のカラスと知恵比べすれば中々良い戦いをした後に負けるほどの莫迦です。
まあ、JKはエモいくらい使うよなーと思いつつ、特にツッコミを入れずに本を読み続けていました。
妹「昨日さ、町田でタピったんだけどさ」
友人「え? ここ?」
妹「うん。そこ」
友人「マジ? いいな! これから一緒に行こうよ!」
妹「了解道中膝栗毛!」
その会話を聞いた瞬間、疑問符がブワッと、鳥肌がゾワッと、頭の中はポリゴンショック。赤と青の明滅がひたすらに繰り返される常軌を逸した状況に、私は混乱を極めました。今の会話、内容がいっっっっっさい分からない。
え?え?何? 私が本を読んでいた間に時が10年くらい進んだ? 今の会話1ミクロも分からなかったんだけど。
「タピった」? なんだそれ? 日本語なのか? もしかしてイヌイット語だったりしない? マジでわからんだけど。タピるの過去形ってのはわかるけど、そもそもタピるが分からん。お前強めの薬でパキってない? しかも「ここ」でパキったの? いつの間に我が家でヤバい薬パキってんだよ。
そして、最も意味☆不明なのが「了解道中膝栗毛」ね。なにこれ? そもそも言葉なのだろうか? 何を伝えたいのか本当に分からない。「了解」になんでこんなオプションパーツ付いてんだよ。海外の通販番組なみにオプション付いてきてるわ。あれもこれも付けた結果が「了解道中膝栗毛」。なげえよ。
マジで二人の会話が理解できない。たぶん偏差値6ってこんな感じなんだろう。周りの会話についていくことが出来ない。すまない妹よ。いつもバカにしていて。こんな気分なんだな。
既に小説なんて頭から離れた。私の頭の中を支配するのは「謎の言語」だけだった。私は頭を下げて妹に教えを請うた。すると妹は「キモ。しね」と心温まる言葉ともに快く引き受けてくれました。誰もが羨む仲のいい兄妹ですよね!
さて、妹から教わった言葉を解析すると先ほどの会話はこのような日本語訳ができます。
妹「昨日さ、町田でタピオカを飲んだんだけどさ」
友人「え? CoCo(お店の名前)?」
妹「うん。そこ」
友人「マジ? いいな! これから一緒に行こうよ!」
妹「了解!」
怖くね?
マジで怖いよね。
タピるってタピオカを飲むって意味なんだって。意味分からんわ。利用シーンが限定的すぎる。タピオカを飲みに行くときしか使えない言葉をわざわざ作る意味を問いたい。だったらまだコーラを飲むときのほうが圧倒的に多いだろ。なんだ、そん時は「コカる」とでも言うのか? 瀧ってんじゃねえか。
いやさ。意外とこのような言葉って問題だと思うんですよ。
「エモい」はどんなシチュエーションでも使えて、なおかつ解釈を相手に委ねる押しつけ効果があるんです。例えば映画を見たら「エモい」。写真を撮ったら「エモい」。音楽を聴いたら「エモい」。こんな風に感想を言うシチュエーションだったら大概使える。
エモい以外にもこのように汎用性が高くて使い勝手の良い言葉は「ヤバい」だったり「面白い」だったり、ツンデレが使う「バカ」とかがあげられます。特にツンデレの使う「バカ」のポテンシャルは凄まじいです。怒ったときの「バカ!」とお礼を素直に言えないときの「・・・・・・バカ」ね。はいこれ最強。このバカ最強。この時、少し頬を赤らめて潤目だったらなお良し。
で、このような汎用性がある便利な言葉に浸食されたらどうなるか分かりますか?
そう、会話の定型文化が始まります。
映画を見たら「エモい」。写真を撮ったら「映える」。
このように会話のバリエーションが極端に少なくなるんです。
実はこのように会話の定型文化しているコミュニティがあります。それが5chです。あそこは全ての会話にテンプレートがあります。
面白いことを言ったら「草」。
詳細が欲しかったら「クレメンス」。
何か意見を言うときは「〇〇おじさん「言いたい主張」。
このように大量のテンプレートが生まれています。
最近だと「子ども部屋おじさん」という新しい言葉も生まれましたね。ちなみに私は子ども部屋おじさんです。
で、このテンプレートで会話をしているとどうなるかというと、自分の意見を言えなくなる可能性があるんですね。つまり、現実で議論が出来なくなるかも知れないと言うこと。
だってそうでしょう?
「エモい」や「草」などのテンプレートで会話をした気になっているのですから。相手の意見なんて気にする必要なんてないんです。ただ自分が思ったことを言語化の作業もしないで、定型文の皮だけ借りて発言した気になっているだけなんです。これは会話ではありません。ただの鳴き声です。互いに理解したつもりになっているだけの猿の鳴き声です。
このまま会話の定型文化が進むとどうなるのかを想像してみましょう。
「昨日のテレった?」
「テレったよ。エモ卍卍」
「わかりみ」
「今日さ、バガらない?」
「マ?モ?バ?」
「マ」
「ありよりのあり」
「それに最近、マがバエルーらしいよ」
「マ?」
「マ」
「り」
「あざまる水産」
「『マ』何回出るんだよ!」
私は堪らずツッコんだ。私の登場に呑気に会話していたJKたちは臨戦態勢を取る。
「うわ、説教おじさんじゃん。説教おじさん『マ何回出るんだよ!』」
「最近多いよね。説教おじさん。最近の若者は言葉がなってないって。お前にはかんけーし! 出てけよ!」
少女達に疎まれた私は呻いた。
私はこの世界に取り残された。若者からは老害と言われ、時代に順応できなかったオールドタイプと揶揄される。今ではもう議論という言葉すら死語になっている。互いの言葉を互いが都合良く解釈できるため、喧嘩や口論なども劇的に減った。私がおかしいのか。いや、私は間違っていないはずだ。しかし確証がない。わからない。何も。
私は大声で叫んだ。周りからの冷たい視線を気にすることなく、声の限り。やがて、私の周りに人だかりが形成される。彼らはみんなスマホを持っていた。私を見世物だと思っているのか、「ツイれるー」「ふぉぼ」「すこ」などの意味の分からない音の羅列が聞こえた。
そのまま私は取り押さえられ、病院に搬送される。
「よーしさっそくオペっちゃうよ^^」
白衣を着たギャルが言った。
「うわー脳の手術なんてバイブスマジあげぽよなんだけど」
止めてくれ。私は正常だ。何も間違ってない! 間違っているのは世界の方だ!
「草」
彼女は笑って、私の頭をかき混ぜる。
すると、途端に例えようのない多幸感に包まれた。嗚呼、どうして私は今まで考えていたんだろう。世の中は考えないでもとても美しい物じゃないか。無駄だよ。無駄。考えるなんて。脳味噌もみんなと一緒にデザインして、会話も服装も思想も全て統一すればここは楽園だよ。
「あっしたー^^」
ギャル先生に見送られ病院から出ると、街は今まさに眠りから覚める瞬間であった。
美しい朝焼けが街を包んだ。まるで生まれ変わった私を街が、地球が祝福してくれているようだった。
「マジエモい」
私はその景色を見て、視界が滲むのを感じた。涙が頬を通り、朝焼けに照らされて一筋の軌跡を描く。世界はエモい。心からそう思った。
どうして「今日のケバブ丼が辛かった」のかを考える
本日、昼休みに私は行きつけのケバブ屋に足を運んだ。行きつけのケバブ屋。なんともダサいが仕様がない。事実である。珈琲が飲めない私には行きつけの喫茶店などない。
ともあれ、そのケバブ屋は都心に店を構えている割りには良心的な価格であり、ケバブラップとケバブ丼は400円。オーソドックスなケバブにいたってはなんと300円である。大学で食べていたケバブ屋より200円も安い。
そんな訳だから、万年金欠の底辺ライターである私は足繁くそのケバブ屋に通っているのである。今日も愛想が無駄に良いトルコ人と思わしき店主がせっせと謎の肉を削いでいるだろうと、私は昼休みに足を運んだのだ。
そのケバブ屋は移動もしないのに、何故かトラックで営業しているお店で車高が高く、私はジャンプしながら店主を呼んだ。
しかし、店主は出てこない。
不審に思った私は、さらに大きな声で店主を呼んだ。
すると、不機嫌そうな表情で日本人の女性がトラックの奥から出てきた。その不機嫌さはなかなかのものだった。電車で座っているとき、隣の人が見ているスマホに太陽が反射し、光で顔をしかめるくらい不機嫌そうな顔だった。
どうしうてそんなに嫌そうなのか、少し考えて気がついた。窓口に「休憩中」と張り紙が貼ってあったのである。これは申し訳ないことをしたと、私はすぐさま謝罪し、また日を改めると告げた。女性は「大丈夫です」と言った。そう言ったのだ。「大丈夫です」とハッキリ口にしたのである。ここ重要。
私はラッキーと思い、ケバブ丼の中辛を注文した。
注文を受け取ったその女性は器に米をよそうと、青い缶をその上にふりかけ始めた。なにをかけているのだろうか、その様子を眺めていると赤い粉が舞っているのが見えた。ヒラヒラと舞うその赤い粉は、紛うことなき唐辛子を乾燥させ、砕いて粉状にした「唐辛子パウダー」。
その唐辛子パウダーを親の敵を言わんばかりに一心不乱に上下するのである。
ふん、ふん。とみるみるうちに白い米が真っ赤に燃え出す。おい、今缶の底を叩いたぞ。あの女。マジか。ホントにこれが中辛なのか? 本気か?
呆気にとられた私は彼女の攻撃を見守ることしかできなかった。
いや待て。少し待って欲しい。私は重大なことを見落としていた。そもそも本当にアレが唐辛子パウダーなのか?
私は色が赤いと理由だけで「唐辛子」と判断した。しかし、色が赤いと言うだけで「唐辛子」と判断するのは些か早計ではないだろうか。人間は主観的にものごとを判断してしまう動物である。色が赤いだけなら「トマト」だって「ポスト」だってそうだろう。もしかしたら、トマトパウダーかもしれない。そうだよ。トマトパウダーだ。それならケバブにも合うし、間違いない。
私がそんなことを考えいると、女性は振りかけるのを止め、具材を盛り付けだした。瑞々しいレタスと、削ぎ落とした肉片を真っ赤な米の上にのせていく。
そしてまた青い缶に手を伸ばすと、狂気のマラカスダンスが再演される。
二の腕をシェイプアップさせるかのようにプルプル揺らし、軽やかに腰と肘を打ち振る様子はまさしくダンスだった。そのダンスを目の当たりした私はもう目が離せない。呆気にとられたのではない。確かに私の意志で彼女の踊りを見守ったのだ。この先に一体何があるのかを見ていたかった。ふと、自分の体から何か暖かい感情が湧き上がるのを感じた。なんだろうこの気持ちは、まさかこれが恋? 彼女のダンスはただのマラカスダンスではなかった。男を虜にする求愛のダンスだったのだ。真っ赤なマラカスで私を誘惑してくる。そのまま私の胸の赤いタンバリンも叩いてくれ。そうだ、私の気持ちはパウダーより赤いぜ。
「400円」
ようやく彼女の踊りは終わった。先ほどの情熱的な求愛を忘れてしまったのか、冷静にそう言った。私は少しだけ悲しくなって財布からお金を取り出す。愛を金で払った。
渡されたケバブ丼は情熱的な赤で彩られ、食欲も情欲も誘うなんとも言えない様子だった。彼女の恋文とも言えるこのケバブ丼を一刻も早く食したい私は、店の奥に備え付けてあるベンチに腰をかけ、真っ赤なそれを口に運んだ。
瞬間、舌が爆ぜた。
例えようのない熱が舌先を灼き、爆発に匹敵する衝撃が喉を襲った。辛くはなかった。ただただ痛かった。
これは恋文なんかじゃなかった。そんなファンシーでロマンチックなものじゃない。もっとファンキーでオートマチック拳銃で殺人予告に等しいものだったのだ。
先程まで彩り深い印象だったそのケバブ丼は、うって変わって地獄に見える。様相は一言で言うなら爆心地だ。肉もレタスも焔で包まれ、かつての原型を留めていない。真っ赤に包まれた肉たちの悲鳴が聞こえてきそうだった。私は悲鳴を上げた。
無理だ。こんなもの食べれない。
「違う。無理じゃありません。無理は嘘吐きの言葉なんです」耳元でワ〇ミがボソッと囁いた。「もしかしたら彼女は試練を与えたのかもしれない」
え? どういうこと?
ワタミは続ける。「これはテストなんですよ。これくらいの辛さを我慢できない軟弱な男じゃないって証明しなくては彼女は振り向いてくれません」
なるほど・・・・・・! 私はワタミの経営者的視点に深く感銘を受け、助言通りに爆発するケバブ丼に箸を伸ばした。
舌に米を乗せると、表皮をピリリと焼くような痛みが生じる。私は痛みを無視し、無理矢理飲み込む。咀嚼され形を変えた激辛米はゆっくりと食道を下降し、ジワリと痛みを全身に運んだ。分かる。米がどこを通っているのか分かる。米は痛みを生じさせながら胃まで到達した。キリリと胃が痛んだ。
「ふっふー・・・・・・」
私は息を吐いた。全身から汗が噴き出し、新年度に相応しくはない嫌悪感で体が震えた。気合いを入れ直して1口、また1口と、ケバブ丼を口に運ぶ。
痛い。とても痛かった。舌先の感覚が麻痺し、唇が熱かった。それでも食べるのを止めないのは、恋が痛いことを知っているからだ。そう常に恋は痛いものだ。痛みは彼女に近づくための必要儀式なのだ。そんなわけないだろ。マジで舌が痛い。もう耐えられない。痛い。つうか、こんな文章を書いている私が一番痛い。というかイタい。マジでイタい。もう20代も折り返しに来ているのに、「恋は痛いものだ」って真顔で書いているのがイタい。キツめの薬でもやってそう。コカインとか。
いやこれ唐辛子パウダーだわ。なんだよトマトパウダーってそんなわけねえだろ。だって、あの女「カエンペッパー」って書いてある缶を振ってたもん。「カエン」だぞカエン。漢字にすると「火炎」だ。ヤバいだろ。絶対嫌がらせだわ。ネットに書いてやるからな。今度はお前を炎上させてやるよ。カエンだけに。って、やかましいわ。
食べ物は粗末にしてはいけません。そう幼少期から教わっていた私は最後の一口を食べ終えると、器を投げるようにゴミ箱に捨てた。少し前の暖かい感情は鳴りを潜めていた。
もうダメだ。二度と来るかこんな店。休憩を邪魔した仕返しに「中辛」を「激辛の百乗」くらいにしやがって。辛いの苦手なんだよ。見栄張って「中辛」頼んでいつも後悔するくらい苦手。絶対二度とこないからな。覚えておけよ。
私が店を出る直前、店員の女性は「ありがとうございました」と笑顔で言った。辛さで汗だくの私にとってそれは清涼剤のようだった。
騙されんぞ。そんな笑顔で私を騙せると思うなよ。ツンデレか? ツンデレなのか? 最初は不機嫌で激辛料理を押しつけるが、帰りは笑顔で見送る。ツンデレじゃねえか。いつからここはツンデレケバブになったんだ。そうやって考えると、激辛料理にも照れ隠しが入っていたように感じる。あれだ、普通に作っちゃうと本気だと思われるから嫌だ、的なね。アレですよ。
いかんいかん。危うく恋に落ちるところだった。もうここには来ないって決めたはずだ。
・・・・・・次回は甘口でお願いします。
ケバブ丼の辛さは恋の辛さであった。